嵐の夜に
2


 プレートの下がった夏美の部屋。不安の夜は続くが、自分のベッドにたどり着き夏美もようやく寝れるだろう。闇を恐れるといっても、彼女はもう子どもではない。だが、俺は閉じられたドアの前で座り込んだ。
 10分だけだ。寝付かないうちに大きな雷がなったら大変だ。自然な行動だ。
 そうだ。夏美が庭先の居候を心配して、見に来たように。俺も同じようにおまえが心配だ。テントからおまえの部屋を見上げていたいつもと変わらなく。

 素直に自分の心の中を表現するなら、心配の前提に一つの感情がある。それはもっとも俺が嫌う、俺から遠いものだったはず。
 夏美を愛している。

「はぁー…」
 思わず深いため息を吐く。この感情の類いに俺は翻弄されるべきではない。理性では十二分に理解しているが、夏美を前にするとその理性が吹き飛ぶ。辛うじて、周囲の目や屈強なプライドで本能に走った行動はしていないが、それが精一杯だ。
 後戻りも前進も出来ない俺の恋は、未来が見えないまま、恋の相手に一喜一憂している。
「情けないぞ俺…」
 夏美を見ていると、夏美のそばにいると、何をしても得られなかった充足感に包まれる。幸せと不安定さ、それと切なさを感じる小さな想いだ。

 もう10分は過ぎた気がしたが、この場から離れられない。このまま朝を迎えてもいいかとも思い始めたころ、見守っていた夏美の部屋のドアが静かに軋んだ。

「ギロロ?」
「なっ夏美っ!?何をしてるんだ!さっさと寝ろ!」
 冬樹の気配は感じないが、控えめな怒鳴り声になる。俺が夏美を思っていた10分の間、夏美も起きて俺の気配を感じていたのか。

「寝れないよ」
「お、俺が気になったのならすまん」
 我ながら少し気負いすぎたか。俺は後悔を覚えながら、立ち上がった。
「違うわよ。…もう少し近くにいてくれない?」
「なっ!?」
 夏美が自分の口を塞いだ。予想外の言葉だったのか、俺以上に真っ赤になっている。俺ももちろん焦ったが、同時に腹立たしくも感じた。
「気軽にそんなこと言うもんじゃない」
「う…」夏美は言葉に詰まった。

「不安で寝れないなら、他の方法がある。おまえが俺に言ったように地下基地は広いんだ」
「……」
 叱られた子どものようにうな垂れている夏美。俺はそんなおまえに心を揺らがされるが、感じ始めた憤りをより強く自分の心の奥に認める。

「俺じゃなくてもいいんじゃないか。話し相手ならケロロでも起こせばいい。あいつなら俺より安全だ」
「安全…って?」
「……おまえもわからない年でもあるまい?」
 怯えたような顔つきは俺のほうだったかもしれない。今まで口にしなかった類いの言葉だった。
 もうおまえもいつの間にか、地球人では大人と呼ばれる年に近づいた。そろそろ夢見がちな想像が、さほと現実味を帯びないものでもないのではないか。
 俺の言った意味を理解できるだろう?

「…俺も男なんだ」
「なっなによっそんなっ…。ありえないってば!」
 嘲る風ではなかった。俺を侮っているふうでもなかった。ただ夏美は焦っているふうに見えた。だが、口調は棘があって、俺の感情を逆撫でした。
 俺は夏美を避け、彼女の部屋に入った。闇とはいっても、もう目は慣れている。時折、渦巻く黒雲から閃光が、部屋の隅々を照らした。後ろに戸惑う夏美は、俺の背中がはっきり見えるだろうか。

 やがてドアは静かに閉じられ、夏美は部屋の中央に腰を下ろした。笑って取り繕ったり、俺を蹴って部屋から追い出したりする様子がない。つまり全く夏美らしくない。それをいうなら、俺も同じだが。
 俺は自分で何をしたいか、何をしようとしているのか、まるで分からなかった。いままで真面目に夏美と、いや俺の中の素直な気持ちに向き合わなかったその報いを、受けている気がする。溜まったツケは大きい。

「俺を見くびるとこうなる。覚えておけ」
 夏美の膝に乗った瞬間、腕を取り肩を押した。夏美を押し倒していた。もちろん倒れる方向に、障害物がないのを確認していた。
 俺は努めて鋭い眼光で、夏美を睨んだ。彼女は心底驚いた様子だったが、俺の無言にやがてどこか挑戦的な様子になる。
「…どうなるのよ?」
 俺の心の中に貯めに貯め込んだ夏美への想いに、火をつけるその挑発。乗ってはいけないと、僅かに残る理性がブレーキをかける。
 だが、俺の身体は完全に分裂しているかのごとく、本能に従おうとしている。闇の中に、黒く浮かび上がる俺の腕が伸びる。
 時間の感覚が麻痺する。夏美に見つめられながら、俺の腕が動き続ける。気温より20度以上高い温度を、指先に感じ、俺は彼女の頬に触れたとわかった。

「…ギ、…ロロ…」
 夏美の声はかすれていた。頼りなくも、悩ましくもある彼女の言葉を聞いたら、俺の理性は完全に消失した。頬にたどり着いたばかりの手は、夏美の耳元まで移り、そして俺は上体を下ろした。
 俺は彼女のくちびるを奪っていた。俺や殊にケロロを叱り飛ばす夏美の口を、俺は自身のくちびるで塞いでいる。彼女のそれは柔らかく、潤いを帯び、暖かかった。恐ろしく幸せな触感で、そして恐ろしく禁忌すべき行為だった。

「…夏美…」
「これは、罰?見せしめ?…アンタを怒らせたから?」
 俺がさっき感じた不快感と同じような気持ちを、夏美も感じているのだろうか。つまりこれには何か特別な意味があるのかという疑問。俺はさっき嵐の夜に夏美が必要としていたのは、俺でなくても他の誰かでもよかったのではないかと感じた。今の夏美も、特別な俺の気持ちを知りたがっているように思えてくる。
 俺のそんな苦慮も、瞬く間に吹き飛んでいく気がする。慎重に言葉を選ばないまま、俺は口走る。

「俺の性格を知っているおまえなら、こうまでする俺の気持ちに気付かないはずはあるまい?」
 夏美はひどくうろたえた。俺には最大級にストレート過ぎる表現だ。
 至近距離の俺の顔を、震える瞳で見上げる。また一瞬走った稲光が、頬が真っ赤になっていると教えた。戸惑いが恐れになるか?驚きが嫌悪になるか?今までの関係には、もう戻れないかもしれない。
 だが、俺は宇宙人なんだ。卑怯だが人間を相手になったらほんの10分くらいの記憶操作は、嫌味な参謀の手を借りずとも出来る。俺はそれを最終武器にして、夏美の反応を見る。

「…わからないわよ。全然わかんない!…」
 そうならばと、俺は再び夏美にくちびるを近づけた。
「…っイヤ!」と夏美が顔をしかめた。俺は初めて見せた夏美の拒否の言葉に、鋭い痛みを感じた。当たり前だ。通常では愛を確認する行為を、強引に奪ったのだ。許してもらえないだろう。
 記憶を消すしかないだろうか。その免罪符を盾に、俺は夏美にまだ自由を与えない。夏美の態度にひどくショックを覚えている俺は、まるで慰めを求めているかのように、再びくちづけを落とした。
 男の腕力で夏美を抑えているが、いつもの彼女ならケロン人を跳ね飛ばすことなど容易ではないか。男のプライドごと、その足で蹴飛ばせるのに、夏美はそうしない。
 甘んじて俺のくちびるを受け入れている。勝手な期待をしてしまうではないか!
 俺を蹴飛ばせ。貶せ。そして本当のことを聞かせろ。嫌いだとでも、他に好きな男がいるとでも、俺は恋愛対象外だとでも、なじってくれよ。

「…アンタ、わたしよりも大人なんでしょ?」
 夏美は涙目になっていた。囁くように小さい声で聞いてきた。
「ああ…。少なくとも成人している」
「からかってるの?」
「それはない!」
 思わず出た大き目の声が、ちょうど風が止んだ部屋に響いた。

「…俺は本来の任務や、異種星人の壁を思えば、いつでもあきらめられると思っていたんだ」
「……」
「俺の恋は望みがない」
 俺は夏美の身体から降りて、やっと彼女を解放した。この想いはどうだろう。気持ちを告白し、恋焦がれたその人のくちづけを奪ったというのに、俺は失望感に襲われる。報われないどころか密かに想いを寄せることも、否定されたような気持ちだった。

「あきらめちゃう?」
 俺の背中に夏美の予想外の言葉がかけられた。
「え?」
 振り返った俺は、上体を起こした夏美の真剣な瞳にぶつかった。



continue

2006/04/12