ギリギリ
5 ![]() 「なんでよ!ギロロ、キャラが違いすぎだから!」 ほお、俺でも怖いと思うのか。男を意識してもらえているようで、俺は嬉しいばかりだ。 いつもの彼女の腕力をもってさえすれば、俺など赤子の手をひねるように完敗させられるのに。夏美は俺を拒んではいないということだ。 恋する女のくちびるまで後数十センチ。俺の意思は、明らかに夏美にも伝わっているはずだ。 「悪いがこれも俺だ。これからはこの路線でいかせてもらう。おまえの前だけだがな」 「…やだ…」 言葉通りの意味ではないな。赤らんだ頬がより一層色を増し、ひそめた眉が悩ましげに下がる。拒否と正反対の表情にしか見えない。 「本当に嫌か」 俺は夏美を解放した。 くちづけをあきらめたわけではない。俺に余裕が出来たのだ。 夏美は意外そうな顔をした。残念な表情に汲んでとれるのは、俺の勝手だろうか。どこかしくじったような目を伏せた瞼で隠し、「脅かさないでよね」と体勢を整えた。 「でも…嫌じゃない…のに」 弱くなっていく語尾は、聞こえないふりをした。 収まっていく恋の焦燥は余裕に摩り替わったが、その余裕はやがて別の緊張に変わっていく予感がした。くちづけを越えると、その先が見えてくる。男の俺には簡単にその道の行方がわかる。そして当の俺自身の自制については、全くわからない。 そうだ、俺は自分が怖いのだ。夏美を傷つけはしないかと。 彼女の気持ちはわかった。俺の気持ちも少しは伝わった。ならば焦ることはないのだ。 「とりあえず夢の続きと行こうか」 俺は夏美と反対側のソファに腰掛けた。 「う…ん、夢の続き……。え!?それって…お風呂!?」 にんまり笑った俺はもちろん冗談のつもりで言っている。見事なまでに真っ赤に反応した夏美は、泣きそうな顔にさえ見える。 「悔しい!」 失言なのか、夏美は言ったとたん口を押えた。 あのなあ、これは勝負じゃないんだぞ、と俺は呆れる。 「…なんでアンタなんかに…」 おい、恋する男をアンタ呼ばわりかよ。 だが、腹は立たない。むしろ心地いい。 「いいから、風呂行って来い」 「で、でも…」 「背中流しに行くか?」 まるで夢と逆の台詞。俺は夏美をからかっている。またおもしろいように反応をする。これが今までの俺だったのかと、少し復讐を遂げた気分だ。 「冗談だ。真に受けるな。まあ、何年後かに願い乞うかもしれんがな」 「バカ!もう知らないっ」 ぷいと怒った夏美に、俺は不安にならない。すくっと立ち上がって風呂場に向かう。リビングのドアノブが僅かな音で開いたが、夏美はそこで立ち止まった。振り向いて俺に言う。 「アンタ調子に乗るんじゃないわよ」 まるで喧嘩を売っている調子だ。 俺が自信ありげなのが気にくわないのか。だからこれは勝負ではないというのに。 「駄目なのか?」 「…駄目とかの問題じゃなくてっ」 「どういう問題なんだ」 「…………」 夏美は自分の気持ちを言葉に出来ないもどかしさを感じているようだ。 「もうっ!」 踵を翻し、ドアに向いた。言葉にするのはあきらめたのかと、俺は彼女の背中を見つめた。 「…悔しいけど、悪くない。調子に乗っていいわ」 「夏美…?」 「んもうっ!肝心なことは鈍いんだから!…つまり、…あ、あたしがギロロを大好きってこと!」 甘い言葉を乱暴に投げつけ、夏美は部屋を後にした。喧嘩の後の捨て台詞のようだから、俺は笑ってしまった。だが、精一杯の夏美の告白に感動をしている。 強情な彼女からストレートな言葉をもらったのだ。俺はソファの背もたれに身体を預け、深いため息をついた。 「俺にはかなわないだろうけどな…」 俺のほうが彼女を愛しているだろう。それは自負ではなく、意地かもしれない。長い間想い続けた意地。 夏美が俺のその意地を知れば、想いの大きさを伝えたら、彼女はどう思うだろう。怖れを抱くに違いない。だが、彼女は永遠に知ることはないだろう。全てを伝えきるなど到底出来ないから。 「どうもいかん。なんだこの少女趣味は」 彼女を想うと、俺の思考は陳腐なものになっていく。 はたとして気付くが、俺の頭から彼女は離れない。いいだろう。今夜くらいは。 壁掛けの時計を見る。針は9時過ぎをさしている。 まだ来る気配がないリビングの扉を見やり、夏美が風呂からあがった後の行動を考える。 夏美も知っている俺のあの夢の続きは、星空を二人で見ることだったが、風呂の後に初冬の空気は辛かろう。 俺は完全に無欲になっていて、このまま夜の挨拶で終わってもいいかと思いはじめていた。 |